文化財ホームドクター活動

・登録有形文化財をめぐる現状

 阪神淡路大地震の記憶は徐々に薄れつつありますが、震災を機に芽生えたもののひとつがボランティア意識であり、「ボランティア元年」とも言われる震災の年以後、災害ごとにボランティア活動が活発に行われてきました。一方で、歴史的建造物に係るもう一つの活動があります。それは、災害により歴史的建造物が失われることを防ぐための、登録有形文化財制度をサポートする人材としての兵庫県ヘリテージマネージャーの活動です。兵庫県では、制度発足後に継続的にヘリテージマネージャーの育成に努め、現在では300人以上が活動しています。文化庁の登録有形文化財登録件数は、47都道府県、846市町村(区)で構造種別累計では10,197件を数え、うち8,006件が建築物、572件が土木構造物、その他の工作物が1,617件です(平成27年8月4日現在)。平成27年に行われた記念シンポジウムでは、文化庁よりこれを50,000件まで増やしたいとの意向が述べられ、今後、登録有形文化財の件数は更に増加していくと考えられます。兵庫県では全国トップクラスの627件(平成28年2月25日現在)が登録されていますが、その保存・活用に関しては、所有者の個人的負担に負うところが多く、実効性のある適切なサポートは乏しいのが現状です。今後は登録数の増加と併せて、その保存・活用をどのように進めていくのか、どのようなサポートができるのかが課題となります。

・マニュアル作成の経緯

私たちが活動を始めるにあたっては、兵庫県が平成21年~22年に選定された「ひょうごの近代住宅100選」のサポート方法を参考にしました。この100選には、阪神大水害、戦災、阪神淡路大震災を耐え抜き、尚70年以上現存している優れた洋風建造物が選定されました。そして選定された建物に対しては、兵庫県建築士会から派遣された専門家(ヘリテージマネージャー)により、適切なメンテナンスに向けた技術的助言がなされました。これが文化財ホームドクター活動の原型となっています。100選の住宅に対する県の「近代住宅定期点検活動」は、補助事業として4年間実施されました。これらの経験を活かし、住宅を登録有形文化財に置き換え、保存活動に向けた取り組みとして提案したものが文化財ホームドクター活動です。さらに内容を検討・改良し、文化庁事業の「NPO等による文化財建造物の管理活用事業」に平成26年度・27年度の2年間採択されたことで、活動を開始しました。初年度は阪神南地区(芦屋市、西宮市、尼崎市)の登録有形文化財18件、次年度は阪神北地区(伊丹市、宝塚市、川西市、三田市、猪名川町)の登録有形文化財11件の訪問調査をそれぞれ行いました。本マニュアルは、これから文化財ホームドクター活動を始める方に向けて、我々の実践を通じて得られた知見をまとめたものです。この取り組みが、登録有形文化財に関わるネットワークの構築につながるものへと発展することを願っております。

・登録有形文化財の保存活用のために

大阪に緒方洪庵が開いた「適塾」があり、大阪大学により公開保存されています。その会報「適塾」No47での副学長の永田靖先生の文が、文化財ホームドクター活動の一つのヒントを示しています。

「改修」とは、…(中略)… 今まで続いて来た過去の時間の流れを断ち切るのではなく、逆に繋ぎ止めながら、未来の必要に向けて枯渇させずに息づかせて行く、それは秘めやかですが、過去と未来を結ぶ芯の通った遠近法に裏付けられています。そこには過去の豊かな知性の層をいつでも感じとり、それを未来に差し向ける、そんな文化の実践なのです。」

この文章の実践の一つが文化財ホームドクター活動であり、登録有形文化財の保存活用の道としてその継続・発展が期待されます。登録有形文化財は指定文化財と異なり、使いながら緩やかに守り続ける形となります。そのため、大規模な毀損に至らないよう適切な修理や維持管理を行うために、専門家による定期的な点検や相談サービスを通じて有効なサポートをしていくことが「文化財ホームドクター活動」の重要な目的です。地域によっては歴史的建造物が街並みとして残り、それらを「伝統的建築物群保存地区」に選定することで観光産業等に活用実施されているところもあります。しかし阪神地区のような都市部では、歴史的建造物がピンポイントに点在しており、街並みとしての活用は難しい状況にあります。ではどのようにしてこれらの登録有形文化財を活かすか、これが文化財ホームドクター活動のもうひとつの目的であり、テーマです。・活動の実践を通じて見えてきた意義前述の文化庁事業において、1年目は阪神南地区の文化財ホームドクター活動を行い、2年目は阪神南地区の2回目の調査と阪神北地区の1回目の調査を行いました。1年目は調査に基づいた調査票(カルテ)作成のみで終わったところが、2年目の訪問では所有者側より質問や提案が出るようになりました。それは、住宅の改修計画・耐震診断・修理をはじめ、学校建築の改修計画や、行政からの一般公開への対応依頼など多岐にわたるもので、対応には受け皿となる活動主体の組織化が必要となります。まだ2回目の訪問でこの状態ですので、さらに回を重ねることで本当の問題点が見えてくることでしょう。専門家が、所有者と顔を合わせながら活動を続けるなかで築かれる信頼関係をベースに、さまざまな課題や相談の顕在化が図られる。この信頼関係の深化こそが活動の意義ともいえます。文化財ホームドクター活動を単発の事業として行うのではなく、継続して活動を行うことが保存活用に向けていかに有効であるかを、今回の事業の実践を通じて実感しています。それには継続活動を可能にする事業の「仕組み」が必要であり、その担い手としてのネットワークづくりも一つの答えとなると考えられます。 

・ホームドクター活動の概要


(1)地域ヘリテージマネージャーを中心とした実施主体の組織化(NPO等)

 文化財ホームドクター活動は、予備調査から始まり、調査票(カルテ)の提出まで多岐にわたる作業となり、相応の人員を必要とします。また、文化財保護上、短期的な活動でなく長期にわたり継続できる組織を充てることが求められます。文化財ホームドクター活動は現状ではボランティア活動的な側面を有するため、社会的責任が持てる、道府県に存在する建築士会の委員会で組織化するか、NPO法人を設立して組織化していくなどの取組が必要です。また、報告書のお届けをもって活動を完了するのではなく、瑕疵部分のメンテ修繕までを見すえた対応ができる組織でなければなりません。さらに年次ごとの報告書作成は、瑕疵の原因究明に不可欠であり、文化財保護の観点からも長期に継続されることが望まれます。文化財ホームドクターの役割を担うのは、文化財の保存・活用に関して専門的知識と技術をもつ、経験豊かな地域のヘリテージマネージャーが適任です。兵庫県で始まったヘリテージマネージャーの養成講座は次第に全国に広がり、全国35道府県、2市で、ヘリテージマネージャーが養成されており、2015年度の受講者数と昨年度までの修了者数を加えると3,482人となっています。2012年には「全国ヘリテージマネージャーネットワーク協議会」が設立され、文化財ホームドクター活動を全国に水平展開する下地は整って来ています。兵庫県内ではヘリテージマネージャーが係った国登録有形文化財の登録件数は、平成27年度で、598件中282件で約47%を占めるまでになって来ています。登録の局面だけではなく、その後の保存活用の礎となる文化財ホームドクター活動においても、建築の専門家たるヘリテージマネージャーが活動の中心になって行くことが予測されます。

(2)財源の確保

活動の開始時には、文化財ホームドクター活動が地域で広く知られていないことから、補助金や行政の協力を得て事業を立ち上げることが多くなると推察されます。数度の活動を経て、所有者の信頼が得られ、また実施主体となる組織の活動が軌道に乗ってくれば、他事業での収益や所有者負担、ネットワーク協議会の寄付など、活動継続に向けた財源の検討が可能となると考えられます。また、個々の活動主体の努力の他に、国や行政による公的な枠組みが一刻も早く整備されるよう提言していくことも求められます。

(3)関係行政への説明、協力依頼

実施主体によっては地域での知名度や信用が充分でない場合もあり、所有者や管理者に突然連絡しても訪問の約束を取付けられない可能性があります。また個人の住宅などでは、そもそも連絡先自体が不明なこともあります。そこで、所有者や管理者の信用を得るためには、所在地の行政の協力を仰ぐことが効果的です。事前準備として、事業開始時に関係行政に文化財ホームドクター活動の意義と内容を説明し、協力を依頼する手続きをとります。具体的には、教育委員会名義での所有者・管理者に対する依頼文の発行、登録時の資料提供(個人情報保護等に配慮して)、などを依頼します。常日頃から登録有形文化財に目を配る機会が限られる行政としては、文化財ホームドクター活動は基本的に歓迎できるもので、こうした事前説明を行うことでスムーズに支援を受けることができます。説明に際しては、関係行政が多岐にわたる場合は、一同に会して説明会を開催するほうが各行政の意見調整が図られ、望ましい形です。

(4)行政への説明会

 前述の文化財事業の活動を説明する中で、行政の方々からは登録有形文化財の保存活用における文化財ホームドクター活動に対して「これしかない!」又「所有者と行政とNPOの信頼のトライアングルが絶対に必要」といった貴重なご意見をいただいています。また、県の住宅100選でも問題となった「門戸を開いてくれない」ことに対しては、行政と一体になり、所有者の気持ちを汲んだ丁寧な対応を心がけることで解決を図っています。行政とは普段から文化財の保存・活用に関して意見交換を行い、互いの信頼関係の醸成に努めることが大切です。

 ・訪問調査、カルテの作成

(1)調査の概要

 訪問調査は活動の第一歩であり、最も重要な核となる部分です。登録所見等を読み込み、対象文化財を理解するとともに、文化財所有者及び関係行政と綿密な調整を行った後、訪問調査を実施します。 調査票(カルテ)は、建物を定期的に点検し、大規模な毀損に至らぬよう適切な維持管理に活用するものです。調査票には所有者からの相談に関しても記録し、調査により培われた信頼関係をベースに、文化財の保存・活用に最適な解決策を見出すための基礎資料とします。

(2)調査準備

①対象物件の抽出

事業開始時には、当面、登録有形文化財を対象とします。調査エリアは実施主体の活動エリア全域とすることが理想ですが、実施主体の人員に対する物件数を考慮して、エリアを分けて複数年度で調査することも検討します。

②調査票の内容確認

資料編A.に示した調査票は、NPO法人阪神文化財建造物研究会が平成27年度に行った調査で使用したもので、「ひょうごの近代住宅100選」の調査時に作成されたシートを、文化財ホームドクター活動に合わせてアレンジしたものです。既に本シートにより調査実績があり、このまま利用することが可能ですが、将来的にホームドクターが公的な制度として整備され、全国で行われるようになれば、それまで各地で行われた調査の知見を反映した統一様式を定め、地域ごとの内容を盛り込んだシートを適宜追加するといった形が考えられます。

③アンケートの内容確認

初回の調査時には、文化財ホームドクター活動の周知とニーズの掘り起こしのため、調査票作成と併せてアンケートを行います。資料編B.に示した用紙は、NPO法人阪神文化財建造物研究会が平成27年度に行った調査で使用したもので、文化財ホームドクター活動の意義・必要性や、所有者の会について質問しています。アンケートは所有者や管理者の意向を知る重要な手段であり、これに地域性などを考慮して必要な項目を適宜追加して、今後の活動につなげられるものになるよう内容を検討します。ある程度書式を統一したほうがよい調査票に比べて、アンケートは地域性や調査主体の性格などを考慮して、より各地域の実情に合わせたバリエーションを持ったものとします。

④調査員の編成について

 調査時には所有者・管理者の質問に専門家としての視点で対応する必要があるため、調査員はヘリテージマネージャーが担当します。ヘリテージマネージャーのかかわる調査は、複数の専門家の目で見ることを重視して、2人以上で行うことを原則としています。文化財ホームドクター活動においても、ヘリテージマネージャー2名以上でのチームを組み、調査を実施します。

⑤実施スケジュールの策定

調査は2~3人で行うのを原則として、各物件の担当者を決め、事業開始時に策定した年間スケジュールを元に、おおまかな調査期間を設定します。関係行政の依頼文の発行を待ち、アポイントを取り、スケジュールを組みます。実際に連絡すると、所有者が高齢や病気である、既に同種の見守り活動が行われている、などの理由で辞退されることもあるため、適宜スケジュールの調整が必要です。多くの場合、訪問調査は2時間~半日程度で終わるため、距離によっては1日に2件回ることも可能です。

(3)調査の実施

所有者や管理者へのアポイントや調査時の印象により以降の作業のしやすさが大きく変わるため、訪問調査においては初年度の作業が最も重要です。

調査の内容は、事前に検討・決定した様式の調査票にまとめ、文化財ホームドクター活動の基礎資料とするとともに、所有者や管理者にも渡して現状を把握してもらうための資料とします。継続的に情報を追記していくことが大切なので、できるだけ客観的・簡潔にまとめるように心がけます。

初回調査時にはアンケートを渡して回答を依頼します。アンケートはより細かい回答を引き出すため、無理に当日に回答を求めずに、後日再訪して回収するようにします。